イチニクス遊覧日記 - ゲームとしての私

そしてその不自由さの多くは「感情」に起因している。恥ずかしい、面倒くさい、悲しい、例えばそんな感情によって、目の前に見えている何かを経験できなかったとき、私は「私」を不自由だと感じる。なんでこの「私」なんだろう、と思う。しかし「私」のことを考えてあげられるのは私しかいないので、とりあえず、これまで育ってきた「私」の偶然の選択を、肯定しようと考える。

しかしもちろん、このゲームは不自由なばかりではない。例えば、私の意志と「私」の行動が一致したとき(それは多くの場合「意志」の方が後にくる)、もしくは「私」の行動が私の予期していなかった「よいもの」を見せてくれた時、私は「この人生で良かった」なんてことすら思わずに、その時を存分に味わうことができる。

しかし「よいもの」はいつだって「私」からやってくる。

多分、こういう体験を重ねて、忘れないでいつでも思い出すことができるのなら、生きていけると思う。